授業計画 | テーマ | 内 容 |
第1回目 |
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参考文献の紹介やノートのとりかたなどについて話をする。
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第2回目 |
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「文化相対主義」→「文化多元主義」→「多文化主義」といった用語の遍歴について基礎的なところを探る。
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第3回目 |
多文化(主義)社会は現在どのような国に展開されているのか?
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多文化社会とは、ただ単にさまざまな文化が存在する社会というわけではない。さまざまな民族を初め、異なるライフ・スタイルの平和的・友好的な共存を目指す社会のことである。その点に焦点をあてる。
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第4回目 |
多文化(主義)社会が語られ始めたのは、いつ頃のことからか? また何故語られ始めたのだろうか?
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単なる多文化が存在する社会であれば、今更取り上げるべきテーマではない。第3回目で取り上げるテーマとの関連で話を広げていく。
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第5回目 |
多文化(主義)社会をカナダ、オーストラリア、アメリカを例にした場合
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カナダ、オーストラリア、アメリカは、先住民をのぞけば、そこにすむ人たちは移民と移民の子孫である。それぞれの国を中心になって築き上げてきた民族が長い間主流派として権力を振るってきた。しかし、いつの頃からか、非主流派の台頭が見られるようになった。その点に焦点をあてる。
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第6回目 |
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日本において「移民国家」、「多民族国家」というと、おそらくアメリカ合衆国を例にとることが多いだろうし、また理解しやすい国家である。理解しやすいといったのは、メディアにおいて最も頻繁に取り上げられる国という意味でである。実際にはたいへん理解しにくい国家である。それを踏まえた上でアメリカの多文化(主義)社会に焦点をあてる。
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第7回目 |
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アメリカは独立革命を前に北部と南部にそれぞれ移住していた人たちの間に結束力が生まれた。元来、それぞれが異なる宗教的背景をもち、別の目的で移住してきていたにもかかわらず、なぜ結束力が生じるようになったかを考察する。→ Great Awakening
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第8回目 |
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英国のユダヤ系劇作家ザングウィル(Israel Zangwill,1864-1926)はアメリカを舞台に『るつぼ』を1908年舞台にのせた。主人公はロシアでポグロム(ユダヤ人迫害)の犠牲者となった家族をもつ音楽家である。彼だけが幸いポグロムを逃れ、アメリカに渡っていたのである。そこでキリスト教徒の女性と結婚することになる。ユダヤ教徒としての彼は悩むが、アメリカを異なる背景をもった移民を受け入れる場所として捉え、悩みを解決するのだが……
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第9回目 |
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17世紀以来、営々とアメリカを築き上げてきたのはワスプ(WASP=White Anglo-Saxon Protestant)であった。そのため彼らが主流派となり、その他の移民は彼らの文化へ同化することを直接・間接的に強いられる時代があった。だが、時代が進むに連れてそうした風潮に批判の目が向けられるようになった。その点に焦点をあてる。
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第10回目 |
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第二次世界大戦後、南部よりの中西部から南部にかけて、アフリカ系アメリカ人のなかに自らが置かれた立場に疑問をもつ人びとが現れた。同時に1950年代から60年代にかけて、第二次世界大戦後の好景気に支えられ、体制にずっぽりと浸り、文化的な生活をなんの疑問も抱かずにエンジョイする世代に批判的な目を向ける世代が登場した。これらの風潮がアメリカに何をもたらすことになったのだろうか?
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第11回目 |
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1950年代から始まったアフリカ系アメリカ人の公民権運動が60年代に一応の解決を見た。その結果、さまざまな少数派が台頭することになった。重要な点は大学・大学院レベルでそれぞれの民族についての学問が居場所を見つけたことである。また、自らの民族性を表立って強調する風潮も重要な点である。しかし、一方ではこの風潮の犠牲になる者も現れたことも忘れてはならない。
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第12回目 |
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1960年代に、Bilingual Education Actが成立する。その目的とは一体何であったのか? 我々にとって言語は民族としてのアイデンティティに深くかかわるものだが……
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第13回目 |
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民族性のみならず、ライフ・スタイルでの差別がどんな社会にも存在することは否定できないであろう。アメリカはいち早くさまざまな意味での少数派救済の一つの方法としてAffirmative Actionを実施した。しかし、そこから逆差別(reverse segregation)という問題も生じている。カリフォルニア州は既にこれを撤廃しているのだが……
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第14回目 |
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ラヴィッチとアサンテの多文化主義についての考え方に焦点をあて、多文化主義の難しさを探る。
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第15回目 |
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